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あじまーオキナワの風

-沖縄出身の編集長が、沖縄と東京の仲間たちと話の交差点で相対する集い。文化から経済、それに産業の問題点など多彩な話題満載、新時代の形式にとらわれない新しいサロン。-

okinawaから日本上陸した、50年前の記録

1962年2月のある日、アメリカの支配するOKINAWAから、内地の東京へと那覇の泊港から出発した。

大勢の家族、親戚同級生に色とりどりのテープが船と岸壁を埋め尽くして、お互いの名前を呼び合っていたのを思い出す。2日間の荒れた冬の鹿児島航路の船旅はつらかった。
僕はそれ以降、沖縄と本土航路の客船に乗っていない。

大揺れのトカラ列島のある七島灘を通り過ぎ、丸2日間の旅の終わりに開聞岳が見えた時、揺れも終わった。間もなく鹿児島湾内の静かな海を行くと、前方には鹿児島名物の桜島がみえる。煙を上げるうっすらとした円錐形の山、異郷に着いたのだという意識に一瞬とらわれた。

1962年2月のある日の夕方、客船は鹿児島港に到着。税関の荷物検査とパスポートには、「日本国に帰国したことを証する?長崎税関」という文句の書かれ た青いインクのはんこが押されたのを鮮明に覚えている。僕などは生まれた日から海外に一度もいったことがないのに、いつの間にか勝手に外国に行かされたの だ。当時の沖縄のことを話すときには、判り易い説明の象徴としてこのことをナイチャーに話すことにしている。

ともあれ、われわれ高校生同級(誰が一緒だったかはうろ覚えなので省略・誰か知っている方は補足を)の6人(あるいは4人だあったかも)は、ともあれ、この夜は鹿児島市内の旅館に同宿した。

翌日、駅に荷物を預け、先に東京までの座席予約券を購入した。東京行きの急行列車の出発までのわずかな時間があり、市内観光ということで、全員で意見一致。

全員連れ立って、有名な西郷隆盛の碑のある城山に行き、その公園の高台を見物。しかし、意外に時間が立つのは早く、列車の発車時間すれすれに駅に到着、乗り込むことはできた。
残念、先に予約していた列車の席は、ぎりぎりの時間になっていたので、全席が自動的にキャンセルされていた。仕方が無いので、乗務員に使われていない車掌室を一同で占拠、寝台席でもないそこでやはり1昼夜の缶詰で、一路東京までの長旅となった。

列車はというと、煙突から煙を吐く蒸気機関車で、急いでトンネルのたびに窓を閉めないと、煙で顔が真っ黒になるからだ。関門トンネルの手前で電気機関車に 付け替え、また海底トンネルを抜けてしばらくして、蒸気機関車に戻っていたのが珍しかった。大阪からの東海道線ではさすがに電気機関車で牽引していた。

僕などは、大きな荷物を手に、寒さ対策で平和通のマチグァーで買った、軍払い下げの足まで届くようなオーバーを、着用していたように覚えている。田舎者丸出しのスタイルであったろうと、今振り返る。
内地行きに夢を持っていたあのころ、息の詰まるような(勝手に解釈?)米軍政のOKINAWAを抜けた日々だった。
そこから僕の本土生活50年が始まった。

追伸
「息の詰まるような米軍政のOKINAWA」というのも、沖縄軍政の言論統制は、当時の琉大生への干渉などひどいものがあった。
高校のクラス新聞(ぶちくんのこ と)の編集責任者でも、名前を届けなければいけない。まさかと思うが、足止めもある、という新垣先生の言葉が耳にこびりついていたからだ。今から考えると 世間知らずに笑っちゃうが、ね。

住☆リフォームねっと (2012年3月 8日 12:58) | コメント(0) | トラックバック(0)

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